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父親は日雇い労働者、母は結核で永らく病んでいた。一人息子の「おがしちゃん」は年の割には体が小さく、自分のことを名前ではなく、「おがしちゃん」と呼んでいた。 1950年代の地方都市には、江戸時代の長屋のようなバラック小屋の仮作が数多くみられた。入り口は板塀に南京錠、台所は土を固めたたたきの脇に古びたコンロがひとつ、土間をあがると4畳半程度の畳の部屋に裸電球がぶらさがっている。トイレは年季ものの板塀で囲まれた共同便所が6世帯にひとつという、典型的な貧乏長屋そのものだ。 ひとつは、腕時計もない時代、春夏秋冬、鳥でもないのに夕方4時になると家に帰ることと、自分のことを「おがしちゃん」と愛称で呼ぶことである。この愛称の由来は、本人もとっくに忘れてはいるが、いたく気に入った様子で、学校に行く道すがら何回も連呼しながら歩いているのが、目撃されている。母親はかなり若い時から結核を病んでいたらしく、4畳半の片隅、それもほとんど日が入らない場所でいつも臥せっていた。背丈も1メーター40センチほどの小柄で、年よりもかなり老けてみえた。多分、病気からくるのか前歯がほとんど欠けていて、笑うと老人のような表情になったからかも知れない。 父親の日雇いの日当は、確か800円だった。一度だけ百円札8枚が入った紙財布を見せられたことがあった。大酒をくらうという人ではなかったが、瓶入りの宝焼酎を晩酌でコップ一杯だけ飲んで、機嫌よく子供の相手をしてくれる優しい人であった。必ずしも周りの評判は高いほうではなかったが、子供たちには、同じ人種のような柔らかい眼差しをもった人であった。 「貧乏でも楽し気な家族・・・」こんな文部省的な役人の感性からは程遠い動物が寄り添う本能的な家族団欒がそこにはあったような気がする。「おがしちゃん」の大事な日課のひとつに、夕食を作る任務があった。朝は父親が日雇いに出かけるまえに、朝食と寝たきりの母親用にと大き目のおにぎりを1個用意してくれていた。毎日10円玉を5枚父親から貰い、3人分のおかずを買ってきて、父親が帰ってくるまでに、料理して小さなちゃぶ台に並べておく。50円で作れる3人前のおかずを想像するのは至難のワザだが、その当時はまだ売られていたクジラの甘辛ステーキや魚肉ソーセージの甘露煮もやし炒め添え、1丁15円の豆腐を2丁買ってきて、おかず全品豆腐料理などという、10歳の少年にしては、かなりヒネタ料理を毎日こしらえていた。 月に1回の家賃の集金には、仮作から300メーターほど離れたお屋敷の老婆が来ていた。昔の庄屋だったのか、戦後のドサクサに紛れて、その辺一体を不法占拠して「にわか地主」になったのか定かではないが、かなり金を溜め込んでいるらしいとの噂だった。家賃は3000円で、滞納することもなく、手のかからない店子ということだろう、集金のたびは、5円で買える程度のお菓子を「おがしちゃん」に渡していた。お金をもってお菓子を買うようなことは、年に1回正月くらいしかできなかったので、集金が遅いと、屋敷まで行って催促することも度々だった。 大きな松の木が何本も鬱蒼と茂っている庭木に囲まれて、屋敷の中は外からは、よく見えなかったが中に入ると、意外と小さな作りの屋敷だった。 |